フィンの趣味

ネットで見つけられなかった自分の気持ちを書いていく。修正を繰り返すため、文章として崩壊している可能性あり。

今日思ったこと

外に出れなくなったおかげで、暇つぶしをせざるを得ない人が多くいると思いますが、

家の中で送る、情報収集活動のほとんどが無駄になると思います。

SNSやニュース見たくなるものはたくさんあってサーフィンしてしまうのに、

結局、人生に何も影響を与えないものばかりです。暇つぶしにはなりますが。

 

捜そうと思えば何でも見つかってしまうような状況は、今の生活を充実させてくれます。

しかし、それだけ成果として自分以外の誰かが自分より数段上に行ってしまったことを見つけってしまったような感覚になります。

インターネットは勝手に生まれるものではありません。誰かが知らないうちに作り、手を広げていったものです。自分の知らないことを誰かは知っていて共有してくれるありがたい物には変わりありませんが、他人の成果を見ているとも言えないでしょうか。

有益だと思われいる情報はもう乗せている人にとっては、既知。もっと言えば、いう前に知っている人が何人もいた後にたまたまその人が最初だと思って書いているのかもしれない。

一歩外に出ても出なくても、他人の成果がたくさん見える。

今使っている端末、家、信号。何もかもが誰かの成果物である。

ある意味では生きるために必要ではあるが、それだけ誰かに差をつけられている。

 

自分で生み出したものはあるだろうが、役に立った記憶もなければ、証拠もない。

それだけ、退化した生活を送っており、頭も大して使っていないのかもしれない。

自分の明日はきっとあるだろうと信頼できるし、これから先の未来も考えていないが、

どうせやってくると楽観している。

でもこれは、誰かの成果の力によって支えられているためだ。

生きるために何をするか考えないし、食べるものはすぐ買える。

労働は成果ではない。誰かの成果に乗っかっているだけ。

何も考えずに言われたことをこなせば、昇級は何かもしれないが、成果の価値をいくらかもらえる。成果が大きいからこそついでに労働者も活かすことが出来ると考えられる。

じゃあ成果とはなんだろうか?

目に見える形で価値があると思わせることである。当たり前ではあるが、そう思わせるのは難しい。成果は時間が経つと当たり前になり、価値が低下するからである。

この時に価値を守るのが広告であろう。

広告は付加価値を何らかの方法でつけることにより価値の低下を防ぐ、または上げる。

そもそも認識されていないのなら、成果として証明させる役割を持つ。

 

何が言いたいかといえば、広告力、成果を作る力、どちらかが出来なければ、

弱い立場で生きる可能性が高いということである。