解説という名の悪魔
世の中には、物事をわかりやすい形で理解するという趣旨のもと、”解説”が存在する。
ほとんどが専門家や強いカリスマ性を持つ者が使い、その場は納得することが多い。
参考書や講義においても同様である。
解説には、当然わかりやすく状況を理解するための側面が強いが最近では、その限りではないように感じる。
解説者は自分の考えを必ず持っている。そのため自分の思惑を通すため、少し解釈を歪めて、伝える場合がある、当然解説を受ける側はそんなことを知ることもないし、そもそもその分野の知識など皆無に等しい場合があるために、歪んだ知識を基礎にしてしまう疑いがある。
そして、学んだものはすぐに教えようとする傾向があることが多く、(その理由についての話は自らで調べてほしい)少しづつ確実に歪みが広がっていく。
最初に基礎にした情報はなかなか疑うことがされにくく、常識として定着しやすい。
予備知識がなければなおさらである。
最も厄介なのは、正しい意見と歪んだ意見がぶつかったときである。
歪んだ意見を持つものは当然教えられたものを、自分の意見だと錯覚する。
そして、自分が否定されたかのように、何らかの反撃に転じ、その意見を守るのだ。
拡散がある程度されている後では、誰が根本であったのかを発見することが難しく、
歪みも修正されず、うやむやになってしまうことが多いのだ。
今の時代では、本当の意味で結束ということはほとんど存在しない。
目の前の課題を行えばそれで簡単に生きられるし、自分の意見は否定されにくく、
ぶつかり合うことも少ない。
それにより、他人の意見が自分の中で根を張り、少しずつ成長、都合のいいように加工され、自分のモノとして定着していくことになる。
だからこそ、本当にぶつかり始めたときには、
取り返しのつかない、闘争に発展する可能性を孕んでいる。
常識となってしまった、歪んだ情報は消すことがなかなかできない。
でも、私が言いたいのは常識を疑えということではない、
常識や情報そのものに少しだけ違う解釈が存在するのではないかと考えてほしい事である。
80%程度は正しいが20%は違うそんな情報があってもおかしい話ではないし、
他の割合でも同様である。
大事なのは、完全に正しい情報はなく、できる限り、自分の解釈に可変性を付けて、
間違ったものを他に伝えないように穏便にしておくべきであり、もし教える立場になったら、自分の解釈を混ぜないようにして、真実のみを伝え考察を相手に任せることが大事であるが、それをもって決定権のない専門外の人間同士の闘争に発展しても不毛となるため、注意が必要である。